Share

第3話 名前を与える夜

last update publish date: 2026-02-15 10:53:44

 彼は俺の胸に顔を埋め、柔らかい舌で乳首を転がす。

 ちゅっと吸い上げるたび、身体がびくんと跳ねる。静かな寝室に、ちゅ、ちゅっと湿った音が響く。

「…っ、ふ、ぁ…やめろって…」

 言葉は出るけど、もうまともじゃない。気持ち悪いわけじゃない。むしろ、ちくりとした快感が神経をじわじわ焼いて、下腹が熱くなる。

 なのに、彼の無邪気な仕草に、胸がざわつく。こんなことで感じるなんて、なんか…間違ってる気がする。

「ん…きみのこえ、すき…」

 彼は片方の乳首を吸いながら、もう片方を指でそっと撫でる。布越しでも、身体が勝手に跳ねる。

(こんなことで…)

 性的な意味はないんだろう。彼はただ、俺にくっついていたいだけだ。でも、だからこそ、感じてしまう自分に背徳感が募る。

「……っ、ぁ……」

 喉から漏れた声に、彼が目を見開く。

「いたいの?」

「……違う。気持ちよくて……びっくりしただけ」

「きもち……いい?」

 初めて聞く言葉を、探るように繰り返す彼。俺はなんとか言葉を絞り出す。

「なんていうか……頭がふわっとして、身体が勝手に震える……いや、びくっとする。そんな感じ」

「ふわって……びくって……?」

 彼は目を輝かせ、胸元でこくんと頷く。

「ぼくも、きもちいい……!」

 恥ずかしそうに笑って、俺の太腿に身体をすり寄せる。薄い寝間着一枚越しに、彼の熱が伝わる。

 ……でかいな。

 いや、待て。

「おい、そこ…!」

「ん……リョウ……なんか、あつい……ぼくのここ、ずきずきする……」

 彼の腰がくねり、熱い膨らみが俺の股間に擦れる。薄い布越しに、彼の硬さが俺の硬さにぶつかる。熱と熱が重なり、じわっとした痺れが走る。

「……なんで、こんな……」

「わかんない……でも、きみのぬくいのだいすき……きもちいい……」

 彼は俺にぴったりしがみつき、足を絡めて下腹を擦りつける。柔らかい吐息が近く、微熱を帯びた額が首に触れる。寝間着がずり下がり、ふと、熱い肌が直接触れ合う。俺の硬さと彼の硬さが、布を越えて生で擦れ、ねっとりとした感触が全身を震わせる。

(こんなこと……していいのか?)

 頭の片隅で警鐘が鳴る。

 彼はただ無邪気にくっついてるだけなのに、俺の身体はこんな反応を……。でも、熱い肌の感触、擦れ合う快感に、思考が溶ける。

(だめだ……気持ちよすぎて、止められない……)

「ねえ、リョウ……これ、なんか、へんだよ……」

 純粋な声。まるで初めての感覚に戸惑ってるみたいだ。

「それは……お前が……っ」

 俺の硬さと彼の硬さが、直接絡み合う。熱い肌が擦れ、湿った感触が快感を増幅させる。でも、彼の動きはぎこちなくて、すぐに止まる。

「もっときもちよくなりそうなのに……ならない……」

 困ったような声。

 手伝おうとして手を止める。

 いや、これはよくないのでは?

 苦しそうに眉を寄せる彼を見て、俺は思わずため息をつき、そっと手を添えた。

「……こうだ。ゆっくりでいい……ほら、こうやって……」

 彼の腰を引き寄せ、俺の硬さに沿うように動かす。肌が直接擦れ合い、熱と硬さがぴったり重なる。ねっとりとした感触と、脈打つ熱に、俺の息が乱れる。

「……あ……きもち、いい……! きもちいい、これ……っ」

 彼の声が震え、身体がびくんと跳ねる。何度か導くと、彼の動きが少しずつ滑らかになる。でも、すぐにまた不器用になり、焦ったように腰を押しつけてくる。互いの熱が肌で交わり、痺れるような刺激が走る。

(こんなの……だめなのに……でも、止められない……)

「……たりない……もっと、くっつきたい……っ」

 彼の熱い膨らみが、俺のものにがむしゃらに擦りつけられる。肌と肌がぶつかり、ぬめった音が小さく響く。俺の身体も勝手に跳ね、快感が全身を駆け巡る。

「お、おい、ちょっと……っ」

「……っあ、だめ、なんか……!」

「……お前、変な声……」

「きみも……きもちよさそう……」

 無垢な笑み。でも、その奥には本能の熱がちらつく。彼の不器用な動きに合わせ、俺も無意識に腰を動かしてしまう。互いの熱が直に擦れ合い、触れるたびに痺れが走る。

「……こう、だろ……?」

「うん……あ、きもち……っ!きもちいいよ……っ」

 彼の声が上ずり、俺の身体も熱くなる。擦れ合うリズムがだんだん合ってくる。俺のものと彼のものが、肌で絡み合い、熱と快感が溶け合う。

「……きみ……なんか、ふわふわする……! きもちよくて……っ」

 彼の声が弾む。俺も同じ熱に飲まれる。互いの熱が触れ合うたび、快感が膨らみ、頭がぼうっとする。

 すると、彼の動きが突然変わる。無垢な瞳のまま、まるで気持ちいいをもっと感じたくて、本能に突き動かされたように、腰の動きが速くなる。

「お、おい、ちょっと、速すぎ…っ!」

(やばい……こんなの、だめなのに……でも、気持ちよすぎる……!)

 彼の無意識の加速に、俺の身体が翻弄される。熱がぶつかり合うたび、痺れるような快感が全身を突き抜ける。もう理性なんてどこにもない。ただ、彼の熱と勢いに飲み込まれる。

「……きみ……なんか、ふわふわ……くる……! きもちいいのが……っ」

 彼の声が切羽詰まり、俺も限界を超える。最後に強く擦れ合い、熱が弾ける。

「……っ、く……♡」

 背筋が跳ね、シーツを掴む手が震える。彼の身体もびくんと跳ね、次の瞬間──

「「…あ、っ…!」」

 彼の声と俺の声が重なり、熱が溢れ出す。二人で、同じ瞬間に、頭が真っ白になる。

 びちゃ、といやらしい音がして、自分の下腹に温かいものが広がっていく。

(……やばい……。こんな子供みたいなやつと擦りあって……)

 じわじわと現実が戻ってきても、身体の奥はまだ痺れていて、思考がまとまらない。 ただ、ひとつだけはっきりしていた──

(でも……気持ちよかった)

 熱が抜けていくのを感じながら、俺はゆっくりと息を吐いた。汗ばんだ額を拭うと、彼は目を細めて俺を見上げてくる。

「……リョウ、なんか、くたってしてる」

 彼はそう言ったあと、自分の下腹を見て、きょとんとした顔をする。

「……なんか、でた。あつくて……へんなの」

 指でちょんと触れて、ぬるっとした感触にびくっとする。

「これ……ぼくの? なんか、すごく……きもちよかった……」

「……お前な……」

 ため息をつきながら、彼の髪を軽く撫でた。

 肩の力が抜けて、ほんの少しだけ笑みがこぼれる。

 ふと、呼びかけようとして――気づく。

 名前を、聞いていなかった。

「名前、本当にないのか?」

「……ない。みんな、ぼくをそれって呼んでた」

 その言葉に違和感を感じながら、もう追求する元気もなかった。

「それじゃ不便だな。甘えん坊だし……アマでいいか」

「アマ?」

「ああ。呼びやすいだろ」

「……アマ。リョウが呼ぶと、あたたかい」

 彼はくすくすと笑い、俺の胸元に頬を寄せる。

「ねえ、もうねる?」

「……そうだな」

 熱の余韻と汗の湿り気が、肌のあちこちに残っている。布団の中はすでにぬくもりで満ちているけど──

「……その前に。風呂、入るか。汗だくだし」

「ふろ……?なにそれ?」

 彼がぱっと顔を輝かせて笑った。その無垢な問いに、一瞬だけ言葉に詰まる。

でも、驚きのない様子からして、本当に知らないんだろう。

(……そうか。風呂すら知らないんだ)

(じゃあ、なおさら──ちゃんと教えてやらないとな)

 そう思いながら、身を起こす。

 隣で、彼が小さく呟いた。

「……また、なまえをもらえた」

 その言葉の本当の意味を、俺はまだ知らなかった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった⑥

     熱の底で、遼は何かを追いかけていた。  金色の光みたいなもの。  あたたかい手。  胸の奥がぎゅっと痛くなる感じ。  それが何なのか、どうしてこんなに苦しいのか、もうわからない。  目を開ける。  見慣れた天井だった。自分の部屋だとわかるのに、身体が鉛みたいに重い。  襖の向こうで、声がした。 「遼のことは問題じゃない。分霊が消えた。それが問題だ」  父の声だった。  遼は息を止めた。  分霊。  知らないはずの言葉なのに、その響きだけが妙に胸を刺した。 「問題じゃない?」  栄子の声が、低く震えた。 「目を覚まさないのに?」 「戻ったなら十分だ」 「十分なわけないでしょ」  短く、鋭い声だった。 「遼は連れていかれかけたんだよ。  消えたのがそっちじゃなくて、遼だったかもしれないのに」  父は少しも揺らがなかった。 「その方がよかった。〈天〉を失った今、この家は終わる」  その言葉に、遼の胸がまた痛んだ。  何を失ったのかはわからない。  でも、自分より大事なものがあるのだと、父は言っている。 「……最低」  栄子が吐き出すように言った。 「こんな家、終わっていいよ」 「音瀬の者ならわかるはずだ」 「わかりたくない」  ぴしゃりと返る。 「私は家のためじゃない。遼のためにやったの」  その声だけが、熱の中の遼にははっきり聞こえた。  遼は布団の上で、そっと指を握る。  何かあたたかいものに触れていた気がした。  大事だった気がするのに、思い出そうとすると、輪郭はするりと逃げていく。  気づくと、目の端から涙がこぼれていた。  熱い涙だった。  頬を伝って、枕へ落ちる。  どうして泣いているのか、自分でもわからない。  ただ、もう二度と触れられないものがある気がして、胸の奥がひどく痛んだ。 ***  あの日から、長い時間が過ぎた。  シーツの熱が、まだ肌に残っていた。  遼は佐伯の腕の中で浅く息をつきながら、ぼんやりと天井を見ていた。  身体の奥はまだ少し痺れているのに、不思議なくらい心は静かだった。  佐伯の指が、遼の髪をゆっくり梳く。  その手つきは、さっきまでの熱とは違って、ひどく優しい。 「……寝る?」  低い声が耳元に落ちる。 「んー……まだ」  答

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった⑤

     最初のうちは、窓の外にも見慣れた景色が流れていた。  閉まった店の灯り、途切れがちな街灯、黒く沈んだ家並み。  けれど、いくつか駅を過ぎたあたりから、遼は小さく眉を寄せた。  こんな線路だっただろうか、と思った。  窓の外が、妙に暗い。  ただ夜だからというだけじゃない。遠くにあるはずの家の灯りが見えず、木立ばかりが続いている。しかも、その木々は風もないのに、ときどき水の底みたいにゆらいで見えた。  隣で、アマはじっと窓の外を見ている。 「……アマ」 「うん」  返事はいつもどおり穏やかだった。  けれど、その横顔を見た瞬間、遼の胸の奥がまたきゅっとする。  アマは、知っているのだと思った。  この先へ行くことを。  この景色がどこへつながっているのかを。  電車がトンネルに入る。  窓の外が真っ黒になった。  その瞬間、車内の灯りがひとつ、ふっと明滅する。  遼は思わずアマの手を握り直した。  すぐそばで、アマが遼を見る。 「こわい?」  遼は少し迷ってから、小さく頷いた。 「……ちょっと」  アマは怒らなかった。  笑いもしない。  ただ、遼の手を包みこんで、静かに言う。 「だいじょうぶ」  その声に、また胸がきゅっとした。  怖いのに、うれしかった。  その手があるだけで、行ける気がしてしまうのが、いちばん怖かった。  長いと思ったトンネルは、音もなく終わった。  けれど、抜けた先の景色を見て、遼は息を呑んだ。  知らない駅だった。  ホームは古く、灯りは青白い。  看板らしきものはあるのに、字が読めない。読めるようで読めない、見ていると形だけが崩れていくみたいな文字だった。  窓の外には、黒い森が広がっている。  その向こうに、どこか見覚えのある山の影があった。  神根だ、と、なぜか遼は思った。  扉が開く。  外の空気はひどく冷たかった。  夏の夜のはずなのに、そこだけ季節が違うみたいだった。  アマが立ち上がる。 「ついた」  その声は、うれしそうだった。  遼も立ち上がりかけて、ふと動きを止める。  ——いや。  神根遺跡は、もっと遠いはずだ。  電車を何本も乗り継いで、それでも最後は山道を行かなければ着かない。  こんなふうに、夜の電車に少し乗っただけで

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった④

     それから半年ほど、遼は何度も離れへ通った。 最初は水と干菓子を持っていくだけだった。けれどそのうち、庭で拾った石や、折った草の葉や、書庫でこっそり覚えた言葉まで持っていくようになった。アマは少しずつ人の言葉を覚え、遼の来る時間になると、障子の向こうでじっと待つようになった。 遼も、ただ会いに行っていただけではなかった。 何度か言葉を交わすうちに、アマが「かみね」から来たのだとわかった。それが神根遺跡のことだと気づいた頃には、もう季節が二度変わっていた。 父の本棚から地図帳を出して、神根の字を何度も指でなぞった。裏門から駅までの道を頭に入れ、庭師が話していた山道のことも覚えた。缶にしまってあったお年玉を何度も数え、これだけあれば二人で電車に乗れるだろうかと真剣に考えた。 子どもの考えることだから、きっと抜けだらけだった。 それでも遼は本気だった。 秋が深まるころには、アマに触れられるたび、遼の体にはもうはっきり変化が残るようになっていた。手首を掴まれればそこから熱がひろがったし、肩に指が触れるだけで、胸の奥や下腹のあたりが落ち着かなくなった。 なんだろう、これ、と何度も思った。 でも嫌ではなかった。困るのに、次もまた触れてほしいと思ってしまうのが、いちばん困った。 その日、遼は離れの座敷で膝の上に手を置いたまま、小さく息を吸った。「……きょう、いこう」 アマが金の瞳を上げる。 遼はどきどきしながら続けた。「調べたんだ。駅まで行って、電車に乗れば、神根の近くまで行ける。お金もある。たぶん、行ける」 アマは黙って遼を見ていた。 その視線に見つめ返されるだけで、遼の胸はまた少し熱くなる。「ほんとは、たぶん、だめなんだと思う。姉さんも変なこと言ってたし、見つかったら怒られる」 そこまで言って、遼は唇を結んだ。「でも、きみをここに置いていくの、もういやだ」 しんとした座敷の中で、アマがゆっくり瞬きをする。「……きみ、かえる?」 アマは遼を見て、それから小さく訊いた。「いっしょに、かえる?」 遼は息を止めた。 返してあげる、とは言った。 けれど、一緒に帰るつもりだっただろうか。自分の家はここで、学校もあって、母も姉もいる。そのはずなのに、アマの金の瞳を前にすると、「ちがう」と言うのがひどく怖かった。「……」 少しだけ迷っ

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった③

     翌日の午後、遼は小さな水差しを抱えて離れへ向かった。  怖くないわけではなかった。姉に言われた言葉も、まだ胸のどこかに引っかかっている。けれど、それよりも、もう一度あの金の瞳を見たい気持ちのほうが強かった。  障子の前に立つと、昨日と同じように空気がひやりと変わった。夏の終わりの庭の匂いが遠のいて、古い木と畳の冷たい匂いだけが残る。  遼は小さく息を吸って、障子を開けた。  その人は、昨日と同じ場所にいた。  淡い金の髪が肩から背へ落ちて、薄暗い座敷の奥でじっとしている。けれど遼の顔を見た瞬間、金の瞳がほんの少しだけひらいた。 「……きた」  低い声だった。  その声を聞いた途端、遼の下腹の奥が、きゅう、と縮んだ。  嫌なような、でも少し甘い痺れが走って、遼は思わず息を止める。  なんだろう、これ、と思った。 「……うん。お水、持ってきた」  座敷へ上がって差し出すと、その人は不思議そうにそれを見たあと、そっと両手で受け取った。飲み方は少しぎこちなくて、喉が上下するのを見ていると、本当に喉が渇いていたのだとわかる。  昨日、戻れなかったことが急に申し訳なくなって、遼は膝の上で手を握った。 「……ごめん。昨日、戻るって言ったのに」  その人は水差しを抱いたまま、少し首を傾げた。 「きたから、いい」  それだけで許されるのが、かえって困る。遼はますます胸の奥が落ち着かなくなった。  しばらく黙ってから、遼はぽつりと訊いた。 「なんで、きみはずっとひとりでここにいるの」  その人は少し考えるみたいに目を伏せた。 「……まえは、ひとりじゃなかった」 「じゃあ、なんで」  金の瞳がゆっくりと遼を見る。 「ついてきたら、かえれなくなった」  遼は息を止めた。  うまくわからない。誰に、とは聞けなかった。でも、その言い方がひどく寂しくて、遼は胸の奥がきゅっとした。 「きみ、名前は?」  その人は少し首を傾げた。 「なまえ?」 「うん。きみのこと、なんて呼べばいいの」  しばらく黙っていたあと、その人はゆっくり首を振った。 「……ない」  遼は目を瞬いた。  名前がないなんて、そんなことあるのだろうか。犬にも猫にも、庭の鯉にだって名前はあるのに。 「……ないんだ」  思わずそう言うと、その人は何も答えなかっ

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった②

    「……だいじょうぶ?」  変なことを聞いた、と遼は言ってから思った。  相手は少しまばたきをして、それから、ほんの少し首を傾げた。 「……だいじょうぶって、なあに?」  遼は息を止めた。  その返しが変だった。  言葉の意味が通じていない、というより、その言葉が最初からこの部屋にはないみたいだった。  ぞわ、とまた背中が粟立つ。  やっぱり、まずい。  ここにいてはいけない気がした。  遼は思わず一歩だけ後ずさった。廊下へ出て、大人を呼んだほうがいい。そう思うのに、相手の金の瞳がじっとこちらを見ていて、うまく足が動かない。 「えっと……つらくない、とか。いたくない、とか……そういうの」  説明しながら、自分でも何をしているのかわからなかった。  相手は黙って聞いている。  その顔が、綺麗なのにひどくわからなくて、遼はまた少し怖くなる。  やっぱり帰ろう。  今度こそそう決めて踵を返しかけたとき、相手がそっと手を伸ばした。  大きな指が、遼の手首を包む。  びくっと肩が跳ねた。  強く掴まれたわけではなかった。振り払おうと思えば、たぶんすぐにできた。  けれど、その手は思ったより温かくて、遼は一瞬、息を止めた。  人の手の温かさとは少し違った。  火みたいに熱いわけでもないのに、触れられたところからじんわり何かが染みてくるようで、手首の内側が落ち着かない。 「……いかないで」  掠れた声が落ちる。  その声が、あまりにも寂しそうだった。  遼は息を止めたまま、掴まれた手首にそっともう片方の手を添えた。  振り払うというより、傷つけないように指を外していく。  大きな手は、少し名残惜しそうに、けれどあっさり離れた。 「……すぐ、戻るから」  そう言って、遼は座敷を出た。  けれど、結局その日、戻ることはできなかった。  水を持っていくつもりだったのに、離れを出た途端、急に怖くなった。誰かに見つかることも、この家の言いつけを破ったことも、あの金の瞳にまた見つめられることさえも、急に現実味を帯びたからだ。  それでも、掴まれた手首のあたたかさだけは、いつまでも消えなかった。 ***  その夜、遼はなかなか眠れなかった。  目を閉じるたび、離れの暗い座敷と、あの金の瞳が浮かぶ。  怖かったはずなのに、

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった①

     音瀬家の子どもは、離れのいちばん奥に近づいてはいけない。  遼は、小さい頃から何度もそう言い聞かされてきた。  夕方から先は行くな。  鈴の音がしても、呼ばれたと思うな。  見ても、知らないふりをしなさい。  理由を聞いても、大人たちは誰も答えなかった。答えないくせに、その話になると、みんな少しだけ声をひそめた。障子を閉める手つきまで、どこか急いでいた。  だから遼も、離れの奥には口にしてはいけない何かがいるのだと、なんとなく知っていた。  その日も、夕方の縁側から使用人が膳を運ぶのが見えた。白い飯、湯気の立つ汁物、季節の菜。けれど、それはいつもほとんど手つかずのまま下げられる。  どうして食べないのだろう。  どうして誰も、そのことを気にしないのだろう。  気になって、遼は庭へ下りた。  石畳はまだ昼の熱を残していたのに、離れに近づくにつれて足元の空気だけがひやりと変わった。夏の終わりの夕方だった。蝉の声も、母屋のほうの話し声も、そこだけ薄い布を一枚かけたみたいに遠くなる。  離れの前に置かれた膳は、そのままだった。  汁の表面に張りかけた膜が、時間の経ち方を見せている。  そのとき、奥で鈴が鳴った。  ちりん。  遼の肩がびくっと揺れた。  細い音だった。高くも低くもないのに、耳ではなく、背中の真ん中に直接落ちてくるみたいな鳴り方だった。  もう一度、ちりん、と鳴る。  呼ばれている気がしたわけではない。  けれど、誰かがそこにいて、じっと息をひそめているのだとわかってしまった。  行ってはいけない。  見ても知らないふりをしなさい。  頭の中で祖母の声がした。  それなのに、遼はその場を離れられなかった。  怖い。  なのに、どうしてか胸の奥が妙にざわつく。逃げたいのとは少し違う、もっと落ち着かない感じだった。障子の向こうにあるものを見なければ、今夜は眠れない気がした。  遼はそっと縁に手をかけた。  障子紙は夕方の光を薄く吸って白く光っていた。近くで見ると、桟の木は古く、指先にざらりと毛羽立っている。  その白さの向こうに何かいると思うだけで、ぞく、とした。  開けたらいけない。  ここを開けたら、何かが変わる。  そんな気がしたのに、指は離れなかった。  ほんの少しだけ。  中を見て、

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   第28話 境界の向こうで、君が待っていた

    「……ほんとにつながったのかよ」  佐伯が俺の隣で、ぽつりとつぶやく。  俺は一歩踏み出そうとした。  それを察したように、佐伯が問う。 「行くのか?」 「ああ。行かなきゃアマに会えない」  佐伯は、何かを言いたそうに口を開いた。  でも、何も言わなかった。  風が、静かに吹き返す。  境界が、俺を呼んでいる。 「……遼」  俺は足を止めて、振り返る。  佐伯が立っていた。  手も出さず、ただそこに。何も言わないのに、全部伝わる表情だった。 「……ありがとう、佐伯」 「……っ」  もしかしたら、佐伯と会うのももう最後かもしれない。  言いたいことなんて、山ほ

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   第23話 刻まれた夜を、まだ終えられない

     熱が引いていくように、俺の中の何かが、少しずつ、冷静さを取り戻していた。  研究室の空気はいつもの通り無機質で、ただ隅で淹れていたドリップコーヒーの香りだけが、やけに馴染んでいた。  佐伯が、紙コップを俺の前に置く。 「……落ち着いたか?」 「……ああ。悪かった、いろいろ」  ぼそりと呟くと、佐伯は小さく笑って、椅子をくるりと回転させた。 「お前、あんなふうに泣くんだな。ちょっと意外だったわ」  その言葉に、少しだけ視線を下げて──  一瞬だけ、口にするか迷って。  けれど、いまなら言えると思った。  俺は、静かに口を開いた。 「……お前のときだって、あんなふうに泣い

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   第21話 愛される資格なんてないのに、忘れられない

     アマが消えて、一週間目。  俺は、神根遺跡を訪ねることにした。  夜の国道を抜け、ナビに載らない山道を進む。  アマが何気なく話していた「根」のある場所。  「いつか一緒に行こう」と笑っていた、その場所に、俺は一人で来た。  ここで──あの時、腕輪を拾った。  岩の裂け目に落ちていた、異様な金の光。  触れた瞬間、掌がじんと熱くなり、  どこか遠くで鈴が鳴ったような気がした。  あの夜、家に帰ると──あいつがいた。  もし……アマとまた会える場所があるとしたら、ここしかない。  そんな気がした。  フロントガラスの外、街灯のない夜が続く。  音もなく降

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   第8話 「いじめてないよ」と笑う男の隣で、天使の瞳に恋と捕食の火が灯る

     毛布を肩にかけ、目をこすりながらふらりと現れたアマ。  金色の瞳が、俺たちの姿をとらえた瞬間、わずかに見開かれる。 「……おまえ、なんでリョウにさわってるの?」  その声は無垢で幼いのに、鋭く、ひやりとする温度を孕んでいた。  佐伯は一瞬、肩を揺らしたが──頬についた血を指先ですくって見下ろし、ふっと笑った。 「ほお……起きたか。すげぇな、お前……」  ニヤリと口元を歪める。 「人間じゃねぇっての、マジっぽいな」 「リョウをいじめちゃ、だめ」  アマが近づくと、俺を後ろから抱きしめた。  潤んだ瞳で、俺をじっと覗き込んでくる。  それにうしろめたさを感じて、俺は視線を

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status